私のまわりにはパレスチナにこだわる人が少なくない。その一人が「さわさわ」というミニコミを発行しています。最近、第5号が届きました。そこでは短歌の寄稿がめだちます。今号の題は「肉親」。
「無理を言う母たしなめるわが口調ふと気がつけば母に似ており」森本忠紀(発行人)
「月見草月見草また月見草父に引かれて歩みし河原に」さわ女
エッセイの一部を紹介。刑務所に面会したときの印象を次のように表現。
彼女の顔は憑き物が落ちたように爽やかと言うか、慈悲に満ちたまなざしであった。それは京都・広隆寺の弥勒菩薩のようであった。-----カール・ヤスパースが----この弥勒菩薩を見て「人間が達しえる最高の姿である」「しかし、こんないい姿、いい顔になれるのは、過ちを犯した人、罪ある人でなければこうはなれない」
10月28日、彌光庵で歎異抄の会。その夜も「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」をめぐってはてしなき議論。歎異抄とヤスパースの言葉と通底するものがあります。本当に心引かれる言葉です。
当日はいわゆる一切の寄進をこばんだ親鸞をめぐって、論争。結局、真宗のプりミティブな形態は無教会主義、自己否定の教団でしょう。
真宗教団のプりミティブな形態に内包されている革命性が、蓮如の時代によみがえったのでしょうか。蓮如までの真宗教団はたとえば仏光寺派など既成仏教化し戦闘性を失っていたように思われます。親鸞を継承するとは言っても、ほとんど無名に近い蓮如は真宗教団の原始的なエネルギーに火をつけて廻ったのです。

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